建物の安全性は法令で確保するもの
それだけではないんだよ
とする、運動の設計
私たちは法令遵守を至上命題と捉え、大切にルールを育もうとしてきました。
しかしながら、言わずもがな、法令遵守をしてさえすれば、安全性は確保され、私たちの生活は安心安全で豊かになるといったことはありません。
本運動論に関連していえば、
建築確認制度という制度は、「建築物の敷地、構造、設備及び用途に関する最低の基準」が定められており、自治体の建築主事が着工前にその最低限の基準が満たされているかどうかを確認するものとされています。
建築確認制度は、この手続きを受けなければ、建築工事が出来ないという効果のみであり、工事が完了した後や、それ以降、その建築物がどうなっているかはほとんど問題にされません。しかしながら、言わずもがな、建築物は長期にわたって使用されます。
日常の中で、施主が愛し、地域に愛され、育っていく建築物の安全性の確保は誰が行うべきか。どうやって行われるべきか。
着工前の基準を満たすか否かのチェックだけではなく、それ以降の育て方に関しての「眼」をどう育んでいくか。
これらはとても大切な議論です。
私たちは日常で既存不適格とされた建築物を多く抱え、一方で、全国一律の高度化への公共性の付与に基づく法令の下で、建築物を(1)どうつくり、(2)育てていくかという課題を抱えています。
長年、法令や制度の形骸化への指摘がなされて、そのひとつの対応の帰結として規制強化がなされてきました。
しかしながら、「規制強化がなされればなされるほど安全性が確保される」といった単純な構図はもはや私たちの社会で支えることがむずかしくなっています。
しかしながら、その解決の解は容易には見つからず、既存の法令遵守の強化や自治体の建築主事の確認の仕組み等を安易に否定する立脚は、解決の手立てを遠ざけています。
(1)つくり、(2)育むための仕組みはどのようなものでしょうか。
法令遵守の徹底、規制強化に頼ることで、失われたもの、得られたものは各々どういったものでしょうか。関係者はどのように関わることが可能でしょうか。
制度改革を踏まえたこの運動体が小さな答えを出し続けていくことが出来ればと思います。